霊光殿天満宮 御祭神 菅原道真公 千百年になります。                                          
         
霊光殿天満宮  創建  九百八十五年                  
    御祭神                         境内神社
       
菅原道真公、  徳川家康、            五社稲荷神社  
    
     祈年祭   3月25日     権現祭  4月17日     例祭、(火焚き祭)   11月25日  
     
         
国家鎮護   天下無敵必勝利運   災厄難除   学業成就         

   

   

    
由緒
   平安時代中期、菅原道真公没後百十五年が経過した寛仁二年(1018) 道真公の子孫菅原定義卿、
   後一条天皇の勅命により河内の国若江郡(大阪府) に社殿を造営、十一月二十五日に道真公の
   御神霊奉られたのがはじめである。

   若江の里は延喜元年(九〇一)道真公左遷の折、大宰府に向かわれる途中、河内国土師の里へおば覚壽
   の方を訪ねられ、更に西に向われる途中、天から一条の光と共に天一神と帝釈天が降臨したところであり、
   そのニ神は〔汝に罪はない、左遷されても落胆するでない。三年経てば汝を天に召し、汝の敵を滅ぼさん〕
   と告げて昇天したと伝えられる。  その故事により皇国天満宮霊地十ヵ所の第二とされ霊光と言う社名の
   由来ともなる。 

    尚、上記御鎮座に際し、後一条天皇より霊光殿の御鍼宸筆額並びに神領として、若江、弓削、錦部の
   三庄を寄進される。 尚又、応永元年(1394)には若江郡一群を神領に定められた。
    後宇多天皇弘安四年(1281)蒙古襲来(公安の役) の時、当社神官であり若江家元祖に当たる菅原在公
   勅命により、敵国降伏の祈祷を行えば霊験あって賊船悉く沈没したという。  その折、御寄付の『天下無敵
   必勝利運』  の御宸筆額  今に現存す。  その後、武家が次第に神領を押さえるようになり応仁の乱後、
   ついに京都東寺観智院に御神肌璽を奉遷、長享二年(1488)にいたりて若江家子孫絶えれば、その祭事を
   東寺に委任した。
 
    元亀元年(1570) 徳川家康公がまだ三河守 元康であった時、神威を聞き剣鏡を捧げ願文を
   納められてより、
   幾多の戦いあるも大事に至らず、家門大いに開け元和二年(1616)朝廷へ神地及び若江家再興の請願を
   された。  しかしながらそれが実現しないうちに家康公が他界され三代将軍家光公よりさらに請願があり、
   後水尾上皇、大蔵卿菅原為適の二男理長に若江家を相続させられ、官営十一年(1634)
   東寺より塔ノ段ノ下
   (上京区) の若江理長宅へ奉遷。  寛永十三年、後水尾上皇御作の東照宮(家康公) 尊像を合祀された。

   以来、公武の御崇敬厚く永世武運長久の御祈祷料 年々二百両拝領。 朝廷及び徳川幕府より御日供料
  他ご寄付品多数あり宝永、寛政、嘉永、の数度朝廷より内侍所(賢所) ご寄付あり、宝暦十一年(1761)現在
  に至った。  現在の社殿は明治五年(1872)近衛家ご寄付のものであるが、度重なる災禍による変遷により
   規模縮小され、往時の景観留めぬことは真に残念である。

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